彼の頭の中

更新頻度は低いと思います。

万理れい子『サイケな街』

 

  近頃、色々なバンドを探しては結局のところOGRE YOU ASSHOLEに戻っている。彼らの曲や詞は、どうも代わりがいない。米を毎日食べる感覚と似ているようにも思う。同じおかずでは飽きてしまうが、米ならそうでもない。

  今回紹介する曲は、万理れい子の『サイケな街』だ。当時この曲がどれだけ流行ったのかも分からないが、妙にクセになっている。

 

 

サイケなサイケな街であなたに会えば

サイケなサイケな花がチルチルミチル

お金はなくても二人二人で踊れば

刹那の刹那の虹が虹がきらめく

もう誰も知らない夢の中で


サイケなサイケな街で踊り続ける

孤独な私の胸に夜明けが来るまで


サイケなサイケな街であなたと別れた

涙が涙が風にチルチルミチル

小さな小さな星を星を頼りに

どこまでどこまでゆけば幸せ掴める

もう誰も知らない夢の中で


サイケなサイケな街で踊り続ける

孤独な私の胸に夜明けが来るまで

 

何となく、この詞における「サイケ」はネオンで眩しい昭和の都会を連想させる。時代的にもそうなのかもしれない。それにしても、「サイケデリック」という分野は、薬物使用時の雰囲気を表現しようとしたものと言われているように思うが、改めて考えると、根本的には薬物を使用せざるを得なかった気分を表現したものかもしれない。詰まる所、サイケデリックとは現実逃避の一つであって、その裏には堪え難い現実が潜んでいるのだ。などといい加減なことを書いておく。

  だが、そのような意味で『サイケな街』の歌詞は分かりやすい。恋人と別れても尚、一人でサイケな街を踊り続けているのである。

ゆらゆら帝国『ソフトに死んでいる』

僕は物書きを趣味としているのだが、坂本慎太郎の作詞のモチーフには影響を受けた。もしかすると、彼のシンボリズムにも影響を受けているかもしれない。

  ゆらゆら帝国の作詞は、一貫して世の中への冷めた視点、ほとんどニヒリズムアナキズムに近い内容となっている。「3×3×3」や「ミーのカー」では悪魔や虫をモチーフに虚構性を表現した。「ゆらゆら帝国Ⅲ」から「しびれ」「めまい」では感覚を表現した。「Sweet Spot」は孤独、「空洞です」では自己消失的な視点を表現していた。これはどれも僕の主観的な、それも今振り返っての話なので、細かく考えるつもりはない。ただ、少なくとも言えることは、ゆらゆら帝国のテーマ性は一貫性があるということだ。これは坂本慎太郎の思想性が一貫しているからだろうと思っている。

 

今回紹介する『ソフトに死んでいる』は、『Sweet Spot』に収録されている。このアルバムでは、全体的に他者とのコミュニケーションが取れない、あるいは、とれたとしても孤独なものだと思っているような歌詞が多い。

 

言いたいことも無い。
伝えたいことも無い。
闇も無い。光も無い。
まして痛みも無い。

一見柔らかい。凄く生暖かい。
終わらない。逃げられない。
忘れたふりはもう
止めよう。
止めよう。
優しげ。不気味に。

 

いっぱい物貰い。

使えないほど貰い。
断れない。置き場も無い。
使いたい物も無い。
一見何も無い。さして不満も無い。
闇も無い。光も無い。
まして痛みも無い。

眠ろう。 
眠ろう。
美しげ。不気味に。

 

丸が狂ってしまった。

円心がずれてしまった。

全く丸が書けなくなってしまった。

一見柔らかい。凄く生暖かい。

一見柔らかい。凄く生暖かい。

 

  この詞の疑問は、何に対して「止めよう」なのかにあるだろう。「眠ろう」の方は、止めようとしている何かに対しての態度と考えられる。

  とはいえ、僕はこの詞は素直なものだと思っている。「止めよう」としているものは、「言いたいことも無い。(中略)逃げられない。」までの性質を帯びているのだと考えている。「言いたいこと」や「伝えたいこと」という伝達能力を示していて、「一見柔らか」く「凄く生暖かい」ものを考えると、これは人間のこと(というよりは自分のこと)を指しているだろう。この人間は、言いたいことも伝えたいことも無い状態であって、光も闇も無い(希望や絶望という意味で捉えている)状態だ。

  僕はこの状態をニヒリズムと考えている。ニヒリズムは悲観的なものと思われるかもしれないが、あらゆるものが無価値であれば、逆に苦しみや悲しみも無価値でしかなくなってしまう。「まして痛みも無い」も含めて、この人間はニヒリズム的な思考回路にあると考えられる。「終わらない」「逃げられない」も、この思考回路から逃れられないということだろう。そうなると、「止めよう」とは、ニヒリズム的な思考から逃れようとすることを「止めよう」としているのではないか。つまり、ニヒリズムを受け入れるということだ。これは二番も同様だ。しかし、ニヒリズムを受け入れるとなると、ほとんどの行動ができなくなってしまう。「眠ろう」つまり「眠る」という行動は、思想性と関係がない行動と言える。

  「優しげ。不気味に」「美しげ。不気味に」は、思想性そのものを「優しげ」「美しげ」と表現しているのだと考えている。又聞きで確認もしていないが、川端康成は冷たい優しさを持っているとかって話がある。この冷たい優しさというのは、誰でも受け入れるし、誰が離れても構わないという立場のものだと思われるが、このような態度もまた、ニヒリズム的な思考回路に近いと思っている。押し並べて無価値ならば、優しくもなれるものかと思うのだ。

  無というもの自体を「美しげ」と考える気持ちも分かるのだが、ふと考えればこれらは僕の考え方を落とし込んだに過ぎないような気もしてきた。

  とっ散らかりながらも並べてみたが、この解説めいた感想は意味があるのか疑問になってきたので、簡潔にして終わりたい。『ソフトに死んでいる』は、ニヒリズムに陥っている有様を表現したもので、Cメロに当たる「丸が狂ってしまった」の箇所は、言うなれば「正常」や「健常」からズレてしまったのだと考えている。その結果から、ニヒリズムに傾倒していったのだろう。

  

  

 

サニーデイ・サービス『心に雲を持った少年』

サニーデイ・サービスはDANCE TO YOU以降本格的に聞くようになった。それまでは青春を題材にした聞きやすい曲を作る方々という印象で、『夜のメロディ』や『空飛ぶサーカス』は好みだったが、それ以外はあまり関心を抱いていなかった。

  DANCE TO YOU以降のサニーデイ・サービスの何が変わったかは、上手くは伝えられない。ただ、何となくアナキズムに近いものを感じている。ロックの基本的な思想と言えるのかもしれないが、少なくとも日本では、あまり思想性に触れるバンドは少ないように思う。と書くと、僕の知識量の少なさが露呈するので、そう大層なことは言えないか。

  今回紹介する曲は、新しいアルバム『いいね!』の一曲目だ。少し聞き取りづらいところはあったのだが、コメントで説明されていて納得した。「ハイライト、コカコーラを捧げ」の部分だ。この言葉選びに感服する。また、「青」の部分は「あの」とも聞こえるが、続く「春」や「海鳴り」から察するに、「青」とした方が適当だろう。サニーデイ・サービスは、いつかライヴに行きたいと思う数少ないバンドの一つだ。

 

 

雲から ハートマーク、叫びの 彼方へ。

人生の 雨季で、ハイライト、コカ・コーラを捧げ。

僕は死んでいるように、感じているんだよ。

遅くまで、ほっつき歩いて。

透明な虹、いくつか捕まえた。

 

青。

ずっと、目を 閉じ 目覚めを 待ってる。

春には、花びら 舞い散る 中に一人立つ。

僕は死んでいるように、恋しているんだよ。

遠くまで、出かけていて、海鳴りを いくつか覚えた。

 

遅くまで、ほっつき歩いて。

透明な虹、いくつか捕まえた。

 

ずっと消えない太陽がある。

ずっと消えない太陽がある。

ずっと消えない太陽がある。

ずっと消えない太陽がある。

ずっと消えない太陽がある。

フジファブリック『浮雲』

  僕は『パッションフルーツ』までが好みで、『若者のすべて』以降は別のバンドだと思っている。アルバムで言えば、『FABFOX』までが好みだった。何となくのイメージでは、『パッションフルーツ』以前、『若者のすべて』からボーカルの死去まで、それ以降の三段階に音楽性が変わっているように思う。特に変化を感じたのは、『若者のすべて』以降は自己啓発気味の歌詞になったことだろう。幅広く受け入れられた代わりに、それまでの季節感やフェチズムが薄れていったように思う。

  『若者のすべて』は良い曲だが、当時の僕は彼らの曲であるというのが残念だった。初めて聞いた時、歌い方の違いから彼らとは気づけなかった。それぐらい、大きく方向転換したのだろう。結果的に言えば、それなりに有名になった。しかし、僕の中では、すでに解散したようなものだった。今回改めていくつか聞いてみたが、その気持ちは揺らがなかった。

 

  今回紹介する『浮雲』は初期の曲だ。歌詞は孤独がテーマになっている。浮雲のような人生に孤独を感じるが、それでも一人で進むしかない、というようなものだろうか。自己啓発的というよりも、自身への率直な気持ちというような気もする。それだけ、音楽で飯を食うのは大変なのだろう。

 

 

登ろう。いつもの丘に満ちる欠ける月。
僕は浮き雲の様。揺れる草の香り。

何処ぞを目指そう。犬が遠くで鳴いていた。

雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう。

歌いながら歩こう。人の気配は無い。
止めてくれる人などいるはずも無いだろう。

いずれ着くだろう。犬は何処かに消えていた。

雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう。
消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても。

独りで行くと決めたのだろう。
独りで行くと決めたのだろう。

  

DIXIE TANTAS『いつか見た月』

DIXIE TANTASはマイナーなバンドだと思うが、とても良い曲を作る方々だった。小さい頃から聞かされていた曲の一つで、はじめは『Super Scream』という曲に惹かれたものだが、歳をとるにつれて落ち着いた曲を好むようになってきたのもあり、今回紹介する『いつか見た月』が今は一番の好みだ。

  この曲の詞は、特別何かを考える必要もないぐらい分かりやすいものだ。少々英語を用いる歌詞や曲調に90年代らしさのようなものを感じるかもしれないが、それはそれで程よく洒落た哀愁を感じる。J-POP史というのは分からないが、当時いわゆる○○系に該当しそうな、しなさそうな分野だと思う。ファンクなJ-POPというやつだろう。

  そういえば、「月」は概ね女性を象徴とする場合が多いようだ。確かに太陽の光は直接見つめられないほど強すぎるが、月がそうなることはない。この光の加減と、いつでも浮かんでいるという性質から、女性性を想起させたのかもしれない。この女性性は男性における理想像とも言えるのだろうが、古くからそう思われているのだから仕方ない。有名な話ではあるが(とはいえ、出典元が不明瞭な点からガセのようだが)夏目漱石は「愛している」を「月が綺麗ですね」と訳したとかなんとか。馬鹿げた話だが、それもまた、月の何らかの性質から普遍性を見出した、ということなのだろう。

 

 

僕は今、果てしない夜に抱かれ

Same Old Moon 君のことを考えている。

思わず涙こぼれそうさ。空に散るよ。

僕はまだ君にいかれてる。

 

君とよく歩いた街の中

一人車で走り抜ける。

過ぎ去った日々が映し出されて

胸裂くような切なさに包まれた。

 

浮かんでは消えてく。

様々な君の仕草を。

帰り道さえ見つけ出せずにいる。

My Heart

 

僕はただ、時の流れを見つめて

Same Old Scene 君のこと考えてる。

思わず涙あぶれ出して空に散るよ。

僕はまだ君にいかれてる。

 

夜更け過ぎ、窓開けて見る空に

青白く月が光る。

君はもう新しいシャツを着て

暮らしているだろう。

この街の裏側で。

 

眠れぬ夜を越え、いつか僕も歩き出すのか。

揺らぐ季節に失うものはない。

My Turn

 

僕はただ、果てしない夜に抱かれ

Same Old Moon  君のこと考えてる。

思わず涙こぼれそうさ。空に散るよ。

僕はまだ君にいかれてる。

 

行方告げずに思い出す。

走り去ったバスを

決して追うことはないだろう。

 

僕はただ、時の流れを見つめて

Same Old Scene 君のこと考えてる。

思わず涙あふれ出して空に散るよ。

僕はまだ君にいかれてる。

 

僕はただ、果てしない夜に抱かれ

Same Old Tune 今日も歌い続けてる。

思わず涙こぼれそうさ。空に散るよ。

僕はまだ君にいかれてる。

 

Love is going

Love is going

 

OGRE YOU ASSHOLE『ムダがないって素晴らしい』

OGRE YOU ASSHOLEはここ一年でハマったバンドだ。僕はゆらゆら帝国のSweet Spot以降のダウナーな調子を好んでいるのだが、彼らはもう解散して新曲が望めないことから、代わりの何かを漁るようになった。そして、見つけたのがこのOGRE YOU ASSHOLEだ。

  この二つのバンドには共通点がある。どちらも石原洋という方にプロデュースされ、中村宗一郎という方がエンジニアとして携わっている。ゆらゆら帝国の曲が好みならば、自然とOGRE YOU ASSHOLEにも行き着くかもしれない。

  ただ、彼らの曲は似ているように感じる点もあるが、全く同一視することはできない。それは作詞の違いからくる音の表現なのかは分からないが、ゆらゆら帝国が象徴的でメタ視点が織り込まれ、ニヒリズム、もしくは、アナキズム的な世界観を作り出してきたとすれば、OGRE YOU ASSHOLEは抽象的に、あるいは、ディストピア的に、やはりニヒリズムアナキズムを表現していると思っている。ストーリー性という意味でも、彼らの詞は対極にあるだろう。本質は同じだとしても、表現する方法が異なるというのは面白いものだ。はじめは代わりのつもりが、全く代わりにはならなかった、という話だ。

  今回紹介する『ムダがないって素晴らしい』は、PVも含めてディストピア的な雰囲気を醸し出している。彼らの楽曲の中でも、ストーリー性を感じられる詞だ。

 

 

街から匂いや色や音が消えた。

ムダのない記号のように見える。

 

一つも余らない。

ムダがないって素晴らしい。

波立つ心もなくし続く。

 

ここで会う二人はムダなく恋をした。

正しく時間が経っていく。

 

どこまでも。

 

いつまでも、変わらず続くみたい。

二人の乾く心に流れたムダのない涙。

 

まだまだ続く終わるはずの場所も

終わらず遠くでかすんで見える。

 

二人の中にはムダなはずの感情が

ああ、でも、消えていくだろう。

ムダのない朝に。

 

小島麻由美『あの子は危ないよ』

小島麻由美は、以前から『眩暈』という曲に惹かれていたが、『眩暈』自体はEGO-WRAPPINに近いと思っていた。そして、EGO-WRAPPIN自体格好いいとは思うものの、やはりハマっていなかったので、小島麻由美もたまに思い出しては聞いてみる程度の存在だった。だが、最近この曲を聴いて、考えを改めることにした。とても僕好みの曲を作る人だった。

 

それはいつどんな時でも起こりうる崖っぷちブルース。
大きな目に涙浮かべて、あの娘はいつもあぶないよ。

 

ある朝目が覚めて、この世でひとりぼっちだとつぶやく。
そうだ!  大好きな人に最後の言葉お別れをしよう。

 

真夜中、響き渡る電話のベル、つまらせた声。
大きな目に涙浮かべて、あの娘はいつもあぶないよ。

 

なんかいいことないか、と幸せは風のように過ぎる。
ほんとそうだ!  大好きな人にわかってほしい。だから今すぐ。


いつどんな時にでも起こりうる崖っぷちブルース。
大きな目に涙浮かべて、あの娘はいつもあぶないよ。

 

解釈1

簡潔に説明すると、この詞は「好きだった人が友人のことを好きになった、あるいは、付き合い出した」直後を表現している。主人公は「崖っぷちブルース」の気分で、電話越しに「あの子はいつも危ないよ」と好きな人に伝えている状況だ。

  一つずつ説明していくと、主人公は「あの子」をよく知る仲だからこそ、「いつも危ないよ」と伝えることができる。この「危ないよ」は、危険という意味ではなく、おっちょこちょいなどの意味で用いられていると考えた方が、全体から見れば自然だと思われる。

  主人公は「好きな人」を諦めるために、「あの子はいつも危ないよ」と伝えている。そうすることで、「好きな人」は「あの娘」を守ってあげなくては、と考える可能性がある。つまり、主人公は自分を突き放して「あの娘」に興味を向かせようとしていると考えられる。これが「最後の言葉」であって、「お別れ」の意味が込められているのだろう。

  また、時間の経過にも着目したい。「ある朝」に「目が覚めて、この世でひとりぼっちだとつぶやく」のだから、一日中思い悩んでいたと考えられる。さらに、恐らく電話をかける直前では「大好きな人にわかってほしい。だから今すぐ」と、自分の好意を伝えるべきか悩む様子が描かれている。

  この詞が粋なのは、その好意を伝えるべきか悩んだ末に、最終的には自らひとりぼっちの道を進んでいくところにあるだろう。決して好きな人には伝わらない遠ざけ方で、自分だけが傷ついていく言葉選びをするあたりに、生々しさを感じると同時に、とても練られた詞だということを痛感する。「大きな目に涙」を浮かべていても、決して好きな人には察せられないように、平然と、もしけすれば明るい調子を出して「あの子はいつも危ないよ」と言おうとしていることが想像される。この主人公の報われない優しさが、暗い気持ちにさせてくる。

  後半でテンポが早くなるのも、こうした不安からくる焦燥感や絶望感といったものを表現しているのかもしれない。むしろ、そう考えると、よりこの曲に惚れ込める。

 

解釈2

簡潔に説明すると、この詞は「精神的に不調な女の子の噂話をしている」様子を表現している。「ある朝目が覚めて、この世でひとりぼっちだとつぶやく。」や「なんかいいことないか、と幸せは風のように過ぎる。」は、女の子の視点で描かれており、「あの子は危ないよ」という台詞は仲間内で不調な女の子の噂をしている、という構図だ。この場合、全知的な視点でそれぞれを物語っていると考えることができる。

 

  どちらの解釈においても、主題は「いつどんな時にでも起こりうる崖っぷちブルース」の一文に集約されていることは間違いないだろう。人称視点の曖昧さから生まれる視点の変化で、解釈も変わる可能性があるようだ。