ゆらゆら帝国『ソフトに死んでいる』
僕は物書きを趣味としているのだが、坂本慎太郎の作詞のモチーフには影響を受けた。もしかすると、彼のシンボリズムにも影響を受けているかもしれない。
ゆらゆら帝国の作詞は、一貫して世の中への冷めた視点、ほとんどニヒリズムやアナキズムに近い内容となっている。「3×3×3」や「ミーのカー」では悪魔や虫をモチーフに虚構性を表現した。「ゆらゆら帝国Ⅲ」から「しびれ」「めまい」では感覚を表現した。「Sweet Spot」は孤独、「空洞です」では自己消失的な視点を表現していた。これはどれも僕の主観的な、それも今振り返っての話なので、細かく考えるつもりはない。ただ、少なくとも言えることは、ゆらゆら帝国のテーマ性は一貫性があるということだ。これは坂本慎太郎の思想性が一貫しているからだろうと思っている。
今回紹介する『ソフトに死んでいる』は、『Sweet Spot』に収録されている。このアルバムでは、全体的に他者とのコミュニケーションが取れない、あるいは、とれたとしても孤独なものだと思っているような歌詞が多い。
言いたいことも無い。
伝えたいことも無い。
闇も無い。光も無い。
まして痛みも無い。
一見柔らかい。凄く生暖かい。
終わらない。逃げられない。
忘れたふりはもう
止めよう。
止めよう。
優しげ。不気味に。
いっぱい物貰い。
使えないほど貰い。
断れない。置き場も無い。
使いたい物も無い。
一見何も無い。さして不満も無い。
闇も無い。光も無い。
まして痛みも無い。
眠ろう。
眠ろう。
美しげ。不気味に。
丸が狂ってしまった。
円心がずれてしまった。
全く丸が書けなくなってしまった。
一見柔らかい。凄く生暖かい。
一見柔らかい。凄く生暖かい。
この詞の疑問は、何に対して「止めよう」なのかにあるだろう。「眠ろう」の方は、止めようとしている何かに対しての態度と考えられる。
とはいえ、僕はこの詞は素直なものだと思っている。「止めよう」としているものは、「言いたいことも無い。(中略)逃げられない。」までの性質を帯びているのだと考えている。「言いたいこと」や「伝えたいこと」という伝達能力を示していて、「一見柔らか」く「凄く生暖かい」ものを考えると、これは人間のこと(というよりは自分のこと)を指しているだろう。この人間は、言いたいことも伝えたいことも無い状態であって、光も闇も無い(希望や絶望という意味で捉えている)状態だ。
僕はこの状態をニヒリズムと考えている。ニヒリズムは悲観的なものと思われるかもしれないが、あらゆるものが無価値であれば、逆に苦しみや悲しみも無価値でしかなくなってしまう。「まして痛みも無い」も含めて、この人間はニヒリズム的な思考回路にあると考えられる。「終わらない」「逃げられない」も、この思考回路から逃れられないということだろう。そうなると、「止めよう」とは、ニヒリズム的な思考から逃れようとすることを「止めよう」としているのではないか。つまり、ニヒリズムを受け入れるということだ。これは二番も同様だ。しかし、ニヒリズムを受け入れるとなると、ほとんどの行動ができなくなってしまう。「眠ろう」つまり「眠る」という行動は、思想性と関係がない行動と言える。
「優しげ。不気味に」「美しげ。不気味に」は、思想性そのものを「優しげ」「美しげ」と表現しているのだと考えている。又聞きで確認もしていないが、川端康成は冷たい優しさを持っているとかって話がある。この冷たい優しさというのは、誰でも受け入れるし、誰が離れても構わないという立場のものだと思われるが、このような態度もまた、ニヒリズム的な思考回路に近いと思っている。押し並べて無価値ならば、優しくもなれるものかと思うのだ。
無というもの自体を「美しげ」と考える気持ちも分かるのだが、ふと考えればこれらは僕の考え方を落とし込んだに過ぎないような気もしてきた。
とっ散らかりながらも並べてみたが、この解説めいた感想は意味があるのか疑問になってきたので、簡潔にして終わりたい。『ソフトに死んでいる』は、ニヒリズムに陥っている有様を表現したもので、Cメロに当たる「丸が狂ってしまった」の箇所は、言うなれば「正常」や「健常」からズレてしまったのだと考えている。その結果から、ニヒリズムに傾倒していったのだろう。